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【AFT講義レポート】「編集長が語るムーブメントのつくり方 5」講師:上岡典彦(『花椿』編集長)

JANUARY 18, 2011 5:41 PM / CATEGORY:AFT講義レポート


◇講義開催日:2011年1月14日(金)


不景気を気にするよりも、流行を生み出そう


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これまで雑誌の編集長を講師にお迎えしていた
「編集長が語る ムーブメントのつくり方」ですが、
『花椿』は資生堂が発行する企業文化誌なので、
厳密に言うと雑誌ではありません。

しかし、1937年(昭和12年)の創刊以来、
常に新しい価値を創造するべく制作されてきた
『花椿』はファッション誌・カルチャー誌・アート誌・文芸誌の
要素を兼ね備え、一時は最大発行部数655万部という
とてつもない数字を記録しています。

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▲1924年に発行された『花椿』の前身『資生堂月報』も!

編集長の上岡さんは広報室勤務を経て、『花椿』編集長に就任。
講義では、資生堂が文化事業に取り組むまでの
経緯と歴史を紐解きながら、『花椿』が担ってきた
役割についてお話していただきました。

アートに興味のある方なら
銀座の資生堂ギャラリーをご存知かと思います。
ここは現存する日本最古のギャラリーであり、
「shiseido art egg」のように発表の場を求める
若手アーティストを支援する企画も行っていますが、
こうした活動の背景には明確な理由があります。

「創業者である福原有信が埋め込んだ企業文化の理念には、
 "文化も資本"という考えがあります。
 文化が経営に役立ち、経営が発展することにより
 新たな文化を生むことができる。ならば、人を管理する人事部、
 お金を管理する経理部、文化を管理する部署があるべきだと」

こうして、
資生堂ギャラリーの運営、『花椿』を制作している
"企業文化部"という部署が設立されたのです。

ここで1920年(大正9年)の新聞に掲載された
資生堂の広告が紹介されました。
そのなかに、こんな言葉が書かれていました。

「不景気のために、今年は流行品ができないということであります。
 しかし、私たちは今不景気を考えるより、
 流行を考えねばならぬ立場にあります」

1980年頃には、さまざまな企業がメセナ活動を積極的に行っていましたが
企業を取り巻く状況が変わると、経費削減などの理由から
メセナ事業から撤退していくことになります。
そんな状況のなか、なぜ資生堂はメセナ活動を続けることができたのでしょう?

「初代社長の福原信三は写真家としても活動し、
 パリに遊学していました。そして、パリで出会った画家を
 意匠部に招いたのです。
 しばらくすると、意匠部に招いた画家が"再びパリで絵を学びたい"と言う。
 そこで、福原信三はひとつの条件を出して留学費用を負担します。
 条件とは、"パリの最新の流行をレポートすること"でした。
 資生堂のメセナ活動は、ただお金を出すだけでなく、
 企業側も何かを得られるような仕組みにしています。
 だからこそ、続けられてきたのだと思います」

こうした姿勢は、アーティストとより良い関係を築くことにも
繋がっています。

2007年に資生堂ギャラリーで開催された
蔡國強の個展『時光 -蔡國強と資生堂』
作家との信頼関係があってこその展示。
蔡國強自身が命名した展覧会タイトルには
"会社の名前が出なくても、担当者が変わろうとも、
活動をサポートしてくれた資生堂との歳月を振り返ってみたい"という
想いが込められていたのです。

『花椿』の連載を担当している執筆陣が
他の媒体ではありえないほど豪華なのも
互いの信頼関係があってこそ。

新しい活動、価値観を生み出すことは
エネルギーを必要としますが、
それを維持していかなければ
人もモノも繋がっていきません。
資生堂の文化事業の歴史は
そんなことを教えてくれたように思います。


3331 小西七重

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